目次
沿革・概要
我孫子市柴崎に鎮座する柴崎神社、水戸道中(旧水戸街道)沿いにあり旧柴崎村の鎮守として崇敬されてきました。我孫子市内では創建が最古に近いと思われる。戦国時代には柴崎城となった柴崎台地の南端に位置する。かつては、妙見社と呼ばれていましたが、その後北星社に改め、明治13年に柴崎神社へ改称した。御祭神は天御中主命であり、天地創造の神で、近世になると仏教と習合し、妙見さまになります。社紋は平将門と同じ九曜紋で妙見信仰の流れを汲む神社です。
神社情報
柴崎神社(しばざきじんじゃ)
御祭神:天御中主命
相殿神:素盞鳴尊・蒼稲魂尊
配祀 :日本武尊・別雷命・金山彦命・大山咋命
社格等:村社
例大祭:7月17日、18日
鎮座地:千葉県我孫子市柴崎173
最寄駅:天王台駅(常磐線)
公式サイト:―
御由緒
柴崎神社は、旧水戸街道、柴崎字天王谷にある。御祭神は天御中主命で、相殿に素盞鳴尊・蒼稲魂尊の二神を祀り、日本武尊・別雷命・金山彦命・大山咋命を合祠している。
景行天皇の40年、日本武尊が征途の安全を祈り、武運長久を祈願したといわれ、承平・天慶のころは平将門の祈願所として崇敬が厚かった。柴崎左馬督が社殿を修築し、相馬一門代々の守護神とされた。
弘治3年(1557)相馬五郎重胤は陸奥の検断職に補されて常陸國行方郡大田に移ったとき当社の分社を祀った。永禄4年(1561)柴崎城荒木三河守が修復し、天正元年(1573)の役で小田原北条氏に下り、刀一振を献納して永世二心なきことを誓った。
寛文5年(1665)に甲州武田の旧家臣初鹿野伝右衛門が、徳川の家臣として柴崎の地を加給され、神社の由緒を聞いて家宝の大身槍を奉納し、堂11年親見弥一郎正徳がこの地の知行主として、弓一張を進献するなどの事蹟がある。親見弥一郎正徳は源義家の後裔とされ、元境内御墓山にその墓所があった。
享保3年(1728)現在の石段を築き、享和13年(1803)大鳥居を建立。天保13年(1842)神社伯王(神祇官の長官である神祇伯を世襲していた白川家)から正―位稲荷大明神の神号を贈られた。
古来より妙見社と称されていたが、明治元年妙見社の号を北星社に改め、同13年、柴崎神社と公称するようになった。明治39年には村社に列せられ、神饌幣帛料供進社に指定され、今日に至っている。
神事・祭事
1月1日/歳旦祭
1月第3日曜日/オビシャ
2月3日/節分祭
2月11日/建国記念祭
6月30日/大祓祭
7月第3土曜日・日曜日/八坂社例大祭
8月15日/慰霊祭
11月15日/七・五・三詣で
11月23日/新嘗祭
12月初旬/大麻頒布祭
12月23日/天皇誕生祭
12月31日/大祓
参拝情報
参拝日:平成27年3月29日
平成28年1月2日
平成29年1月2日
平成29年12月3日
御朱印
初穂料:300円、拝殿右手社務所でいただくことが出来る。
御朱印は社紋である九曜紋が押されています。兼務社であり、兄弟関係にあるといわれている我孫子市台田に鎮座する北星神社の御朱印にも九曜紋が押されます。いずれも妙見信仰の流れを汲む神社であることから、御朱印をお受けになるときには押していただけるとのこと。
歴史考察
関東地方に残る『日本武尊』英雄伝説
日本武尊は東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。そのため、関東各地に日本武尊に関する伝説が数多く残っている。中でも一番多いのが、武運長久を祈願したというもので、東日本各地の神社にその伝説が残っている。柴崎神社にも東征の時、安全を祈り、武運長久を祈願し、住民が軍旅をねぎらったと語り伝えている。我孫子市内には天照神社があるが、古い歴史があり日本武尊がその地に天照大神を祀って宮を建てたというから、柴崎神社はその前に宮があったようだ。
平将門の祈願所
我孫子周辺は、平将門伝説が数多く残っているが、柴崎神社は平将門の祈願所として崇敬が厚かったという伝承がある。土豪の柴崎左馬督が社殿を修築したというが、左馬督は将門の戦死より早く首を斬られ、その霊を祀った祠があり、今でも供養が続けられている(左馬督の実在は不明、伝承と思われる)。将門没後は一時社運が傾いたようだ。
相馬家一門の守護神
鎌倉時代に入り、この一帯は相馬氏が支配をしていたが、相馬氏はこの柴崎神社を相馬家一門の守護神としていました。相馬氏は千葉氏を通じて平将門の子孫といわれている。相馬氏の家紋は九曜紋であり、平将門も九曜紋を用いたといわれています。守護神とされた柴崎神社が九曜紋を社紋としたのは自然のことかと思います。ちなみに「九曜紋」は北極星・北斗七星の信仰である「妙見信仰」に由来し、「北辰信仰」とも呼ばれています。この北辰・北斗の化身とされる「妙見菩薩」は、軍神として武士の間で崇められるようになったそうです。元亨三年に相馬氏(1323)が分裂しましたが、弘治三年(1557)奥州相馬氏となった相馬五郎重胤が下総から奥州行方郡に下向し、柴崎神社の分社を建てたといわれています。
戦国時代の柴崎神社
柴崎神社と隣接する円福寺の両境内は、戦国期の城郭址と推定される跡が見られ、神社裏手の道路は今も空堀の名残をとどめている。国道六号を挟んだ柴崎周辺を、字小木戸といい、柴崎城址といわれる字城根と、そして山王作と続く柴崎の台地は、まとまりの良い戦国城館だったと推察できる。柴崎神社は中世期から今の場所に存在したとは考えにくく、廃城のあと造られたものと思われる。
本土寺過去帳と東葛飾郡誌によると
『本土寺過去帳』には柴崎に関する記載が、永正二年(1505)柴崎八郎四郎など四件ある。また『東葛飾郡誌』には、永禄四年(1561)に、柴崎城主荒木三河守が社殿を修築し、天正元年(1573)太刀を奉納したとある。いずれも実在を証明する手がかりはつかめていないが、柴崎神社には太刀一振が社宝としてあるが、果たしてこの太刀が荒木三河守が奉納したものかは正確な記録がない。
元旗本領であった柴崎の地
江戸時代には柴崎は旗本領であった。寛文五年(1665)、甲州武田氏の旧臣初鹿野伝右衛門が徳川家家臣として柴崎を加給された。初鹿野伝右衛門は柴崎神社に家宝である大身鑓を奉納、同十一年新見弥一郎正徳はこの地の知行主として弓一張を献納した。いずれも柴崎神社の社宝となっている。
妙見社から柴崎神社へ
柴崎神社は古くから妙見社と呼ばれ、妙見像を奉斎していた。明治維新に伴って廃仏毀釈され、社名も北星社と改められ、さらに明治十三年に柴崎神社と改称、明治三十九年に神饌幣帛料供進の村社になった。明治の『神社明細帳』には、村社柴崎神社、祭神天御中主命と記されている。
柴崎神社のおびしゃ
柴崎神社の氏子は今も厳格におびしゃの行事を毎年1月第3日曜日に行っている。おびしゃの神事、びしゃ(弓矢の行事)、直会から引継ぎへ規則正しく行っている。おびしゃは下総地区に根付いている神事であるが、
柴崎神社の氏子108戸が住む柴崎は、新田・中通[なかどおり]・本郷・小木戸[こきど]・向原の5区(坪)に分かれ、区はさらに4戸から10戸余の組に分かれ全部で18組となる。オビシャの当番は毎年輪番で、18年毎に廻って来る。今年の当番は本郷の最後の組で、来年は小木戸の最初の組が当番である。オビシャの費用は当番組で負担するので、今年の9軒に比べ来年は6軒となるため、各家の負担金は大きくなる。昔は3回当番をする家は不幸といわれたが、跡継ぎが家を離れている家も多く、当番3回目の家も多くなってきた。
三峰信仰と柴崎神社
我孫子における三峯信仰の石塔は21基確認できる。柴崎神社の境内にも三峯信仰の石塔はある。柴崎神社社殿の右に境内社として三峯神社があり、保存のための大きな覆屋の中に鎮座している。神社本殿に良く見られる流造であるが、屋根の両妻に棟持柱、棟の両端に千木、その間に鰹木4本が載り、向拝柱が建ち、柴崎神社に似て大変立派な社である。三年に一度、三峯神社へ一泊参拝する永代講社が今も執り行われている。
境内案内
旧水戸街道に面する鳥居
享保3年(1728)現在の石段を築き、享和13年(1803)石造りの明神鳥居を建立。天保13年(1842)神社伯王(神祇官の長官である神祇伯を世襲していた白川家)から正―位稲荷大明神の神号を贈られた。平成7年経時劣化による倒壊、同年9月吉日再建された。
境内に並ぶ神の使い玄武(亀)
妙見信仰の流れを汲む神社だけあって、境内には玄武(亀)の石像が並んでいる。神使としての扱いなのだが、妙見信仰とのつながりを感じざるを得ない。
神明造の社殿
現社殿は昭和六十二年に新築成って面目は一新し、十月十八日に遷宮祭が執行された。檜造、銅板葺の荘重な建物で、本殿・相の間・拝殿が連なっている。
神社写真帖
[ 境内全景 ]
[ 鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[本殿]
[ 狛犬 ]
[ 狛亀 ]
交通アクセス
◇常磐線天王台駅 徒歩10分
[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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