我孫子市

天照神社 / 千葉県我孫子市

目次

沿革・概要

我孫子市中峠(なかびょう)に鎮座する天照神社。伊勢山天照神社とも呼ばれている。草創は不明ですが、日本武尊の東征を記念するため、葛飾野の開拓に従事した住民等の鎮守として勧請されたと伝えられている。下総の国中相馬七郷(岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村)の総鎮守として崇敬されている。炮烙待(ほうろくまち)や境内社の浅間神社の祭礼など中世以降から続く伝統的な祭礼が今なお続く由緒ある神社である。

神社情報

天照神社(てんしょうじんじゃ)

御祭神:大日霊売命
御利益:開運招福、地域安全、身体壮健
社格等:無格社
例大祭:10月1日
鎮座地:千葉県我孫子市中峠1148
最寄駅:湖北駅(JR成田線)
公式サイト:https://tensyoujinjya.jimdo.com

<御祭神:大日霊売命> 天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。

御由緒

当社の草創は遠く古代に遡る。それについては、大正五年の社殿改築記念碑に当時の社掌で神社の振興につとめた千濱宗輔氏の識書がみられた。また、『湖北村誌』には、日本武尊東征にちなむ伝説と共に、景行天皇の東国巡行の時に、葛飾野に狩猟された遺跡との言い伝えも記されている。
その後古代から中世にかけての伝承には乏しいが、元文五年(1740)の「中峠村田畑社地不残大概書」には、当社天照大神宮で十ヵ村の祭礼が九月朔日に執行されることが記されており、その後、中峠、中里、古戸、日秀、新木、都部、岡発戸、の元七ヵ村組合の大産土として崇敬されてきた。なお、祭礼に先立って八月十五日に七郷の氏子総代がここに集まって祭礼の談合協議を行う慣例が大正末年までつづき、祭礼は「炮烙待」といわれ、寛政の頃から七郷の奉納相撲が行われてきたという
明治の「神社明細帳」には「社殿間数間口壱間五分、奥行弐間」とあり、向拝付の小社殿であったようにも考えられる。それが大正五年に改築されて、「社殿間数間口壱間五分、奥行弐間三分三厘、拝殿間口二間、奥行弐間五分」となった。この社殿は年月を経て損傷しているが、本殿および拝殿共に棟持柱と千木および勝男木ののる神明造である。現在の社殿は、平成二年九月一日に完成、社殿は本殿、幣殿、拝殿からなり何れも銅版葺、檜造りである。本殿は神明造り、千木、鰹木を備える。水屋は、銅版葺、檜造りである。
鳥居は、石造神明鳥居であるが、もとは木造であった。それが大正六年の大風で倒壊して、昭和八年に石造鳥居に建てかえられた。
境内の八坂神社は、明治九年に都部村から遷座された。また、明治四十年には、二本榎旧在の浅間神社、鹿島前旧在の鹿島神社、亀田旧在の雷神社、高根旧在の大六天社、海老宿旧在の山王神社を合祀、翌四十一年には、上溜台旧在の稲荷神社、下根古屋旧在の足尾山神社が合祀された。それらの中で、浅間神社は草刈浅間と呼ばれ、二聞に一間半の切妻造社殿があり、その後方に「富土浅間大神璽、明治十四巳年五月三十日」と刻んだ石祠がある。また、旧稲荷神社の扁額や、向拝の木鼻の彫刻の残片等も保存されている。
なお、境内に旧在した二十一仏板碑は、天正九年(1581)在銘で、海老宿旧在の山王神社の合祀に当って移されてきたものであり、我孫子の地への山王信仰の流伝と庚申信仰の先蹤を知る貴重な文化財である。いま、その板碑は中央公民館の中庭に保存公開されている。
ちなみに、当社は、当地方がかつて相馬御厨として伊勢神宮所領となったことと深い関係があると考えられるが、手賀沼対岸の沼南の塚崎神明社も、相馬御厨の神社としての由緒を語るものである。

我孫子市史 民俗・文化財篇より

神事・祭事

1月1日/歳旦祭、元朝参り
1月中旬/古神札焚上式
6月30日/浅間様大祭
7月16日/八坂神社祭礼
10月1日/例祭
12月中旬/歳神様お札配布
12月31日/大晦日、新年を迎える会




参拝情報

◇参拝日
平成29年12月16日
平成30年6月30日/浅間様大祭

御朱印

御朱印あり。筆者はいただいていないため、初穂料は不明である。
社務所にていただける。

[2018.1.2更新]
御朱印は社務所ででいただくことが出来ます。初穂料は300円。シンプルな御朱印ですが、中相馬総鎮守と墨書されます。

歴史考察

湖北村誌に記載されている草創

『湖北村誌』によれば、「当社は景行天皇の40年、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征を記念するため、葛飾野の開拓に従事した住民等の鎮守として勧請したものという。また、景行天皇53年に天皇が日本武尊を追懐し、東国に行幸した時に葛飾野で狩猟した遺跡を祀ったものとも伝えられている。」ということである。日本武尊の東征に関連した伝説は関東各地に残っており、天照神社の伝承もこの中のひとつとであろう。

『日本書紀』によると、景行天皇40年6月、「東の夷(ひな)が多(さわ)に叛いて、辺境がどよめいている」として、7月に誰を遣わすかがはかられた。日本武尊は熊襲を平らげてきたばかりなので、兄の大碓(おおうすの)皇子(みこ)を遣わすべきであると言ったが、皇子は怖じけて隠れてしまったので、武尊が東征することとなって、10月に出発した。また、53年8月、景行天皇は武尊を偲んで東国を訪れ、10月に上総国に至ったとある。

 

相馬御厨との関係

『房総の伊勢信仰』によると、下総国には相馬郡を分けて6郷があり、天照神社は手賀沼対岸の柏市塚崎神明社と共に伊勢神宮所領の相馬御厨(みくりや)の神社としての由緒があると記されている。

相馬御厨は、現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市のあたりにあった中世の寄進型荘園の一つ。「御厨(みくりや)」は皇室や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。相馬御厨は伊勢神宮の荘園。

下総国相馬郡(現在の取手・我孫子・柏市の一帯)に設けられた伊勢神宮領。《神鳳鈔》によればその面積1000町歩に及ぶ。桓武平氏の流れを汲む平良文が開発し,平安末期にはその子孫である千葉氏が伝領するところとなった。1130年(大治5)下総権介平常重(経繁)のときに下司職を留保して伊勢神宮に寄進し,その後豊受大神宮にも寄進しており,二宮領御厨として室町時代まで続いた。常重の寄進状によると伊勢神宮へ寄進するに際して荒木田延明を口入神主とし,供祭物として田畠地利上分と土産のサケを奉納し,加地子職ならびに下司職は子孫の相伝とする旨を記している。(世界大百科事典 第2版より抜粋)

 

相馬御厨を巡っての抗争

天照神社が鎮座する中峠の地は、かつて相馬御厨の一部であった。十二世紀、相馬御厨の支配を巡って抗争が続き、この地を治めていた相馬氏も14世紀には下総と奥州とに分かれ、南北朝の内乱には南朝方についた下総相馬氏が敗れ衰えた。

 

我孫子市指定文化財『二十一仏武蔵石板碑』

二十一仏武蔵石板碑は全国的にも少なく、埼玉県さいたま市を中心に発見されています。その分布範囲は狭く、我孫子市中峠はその東限にあたります。二十一仏信仰は平安時代に始まりました。比叡山の二十一の諸神を、仏教の如来・菩薩・明王・天の主なものに当てはめて本地仏としたものです。天照神社の二十一仏武蔵石板碑は天正9年(1581)141×35×5cm、海老宿旧在(現中峠)の山王神社の合祀により移されたもの。我孫子の地への山王信仰の流伝と庚申信仰を知る貴重なものである。平成7年5月11日我孫子市指定文化財第1号となりました。

板碑とは中世に先祖の供養や自らの安堵を祈願して作られた塔婆の一種で、ここにあるのは緑泥片岩の石材と形から武蔵板碑に分類される。柔らかな質の板石に仏像や年号、造立の趣旨を彫りこんで記している。二十一仏板碑は天台宗にかかわるもので、この板碑は分布の東限にあたる。

[我孫子市指定文化財 二十一仏武蔵石板碑 掲示板]

 

炮烙待と呼ばれる祭礼

旧暦9月1日に炮烙待(ほうろくまち)と呼ばれる祭礼が行われている。かつて、その例祭に先立ち、8月15日に七ヶ村の氏子総代が親村といわれる中峠の総代の家に集まって祭礼の相談をする習慣が大正末期まで行われていた。その祭礼は、「芝原の炮烙まち」ともいわれている。祭礼は、早生米やもち米を炮烙で乾燥させ、赤飯にして神に供えていたことからの由来のようである。また、寛政の頃から七郷の奉納相撲が行われてきたという。祭礼の日には、大正末期まで湖北小学校の全校生徒が参拝をするなど、由緒深い神社である。現在は、10月1日午前9時より、拝殿において氏子、中峠上区下区各区長などが参列して神事が行われ、午前11時より中峠上区の集会所で直会が行われる。

 

浅間様のお祭り

明治40年に二本榎旧在(現湖北台)から合祀された浅間神社は草刈浅間と呼ばれ境内南東の角に、「富士浅間大神璽、明治十四巳年五月三十日 願主 花嶋金蔵 当村孝心同気」と刻んだ石祠がある。草刈浅間とは古く、女子供たちが草刈りをした身なりで、その場から直接祭りに行ったためにそう呼ばれた。6月30日(旧暦6月1日)中峠の浅間神社(天照神社境内に合祀)の祭礼は、宵浅間といって前日の夕方から、境内・参道に露店が並び、小中学生の下校時のなると、狭い参道は通れないほど多くの子供たちや家族連れで賑わう。特に1年以内に生まれた新生児は、「初浅間」と言って必ずお参りするものとされていた。

[ 浅間様大祭 ]

 




境内案内

石造の神明鳥居

昭和八年に造立された花崗岩330cmの石造りの神明鳥居。両側の狛犬も同じ時期に建てられた。旧鳥居は木造であったが、大正六年の大風で倒壊した。

 

平成二年に改築された社殿

社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる。大正五年九月に改築されたが、平成二年に新しく建て替えられた。本殿は三間二間、神明造、鉄板葺。棟持柱、千木、堅魚木を備えている。幣殿は梁間二間、両下鉄葺。拝殿は三間二間、神明造形式、鉄板葺、正面に縁があります。

 

浅間神社社殿

二間一間半切妻造、鉄板葺。明治四十一年合祀の一宇で、小形の祠を社殿の中に奉祀、後方の小高いところに「富士浅間大神璽、明治十四巳年五月三十日」と刻んだ石祠がある。

 

二十一仏武蔵石板碑跡

かつて神社境内には二十一仏武蔵石板碑があった。天正9年(1581年)の銘があり、山王神社の合祀に当って移されてきたものである。現在は中央公民館の中庭に保存公開されている。

 

神社写真帖

[ 鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]

[ 狛犬 ]

[浅間神社]

[二十一武蔵石板碑跡]

[ 社務所 ]

[ 石祠群 ]

[ 石碑群 ]

[御神木]

交通アクセス

◇JR成田線湖北駅 徒歩5分

[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。



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コメント

    • 染谷 一夫
    • 2018年 4月 04日 6:12pm

    丁寧なブログでのご紹介ありがとうございます。
    またご参拝においでになる時は、ご連絡いただけたらと思います。
    お目にかかりお話出来ましたら、楽しいひと時を過ごせるかとぞんじます。
    ありがとうございました。とりあえず御礼申し上げます。

  1. 2023年 3月 21日

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