我孫子市

竹内神社 / 千葉県我孫子市

沿革・概要

我孫子市布佐に鎮座する竹内神社です。布佐一帯を眺めることができる宮作の小高いのかの上にあり、布佐一円の鎮守として崇敬奉祀されている。竹内神社のある布佐は、かつてその味利根川一と賞された布川鮭(現在の茨城県利根町で獲れた)の網場。網代場はやがて利根水運の中継地ともなり江戸時代には、高瀬舟が行き交う利根川水運の港町として、銚子から江戸への鮮魚輸送の中継地、いわゆる布佐河岸として栄えた町である。毎年9月に3日間斎行される例祭は山車や神輿で賑わい、河岸の街として繁栄した面影が偲ばれる。元宮が近くの愛宕神社であり、祭神も天之迦具土命であることから、愛宕系の神社であることが窺える。明治9年郷社に列格されたが、我孫子市では唯一の郷社である。

神社情報

竹内神社(たけうちじんじゃ)

御祭神:天之迦具土命
相殿神:日本武尊、竹内宿禰命
社格等:郷社
例大祭:9月14日、15日、16日
鎮座地:千葉県我孫子市布佐1220
最寄駅:布佐駅(JR成田線)
公式サイト:―

御由緒

創始は承平年中(931~938)といい、平将門の乱が平定した天慶三年(940)に武内大明神を奉斎したと伝える。

沿革の詳細は、古記録の類が安政六年(1859)の名主方の火災で失われたために不明であるが、別に「由来記」一巻がある。それは文化三年(1806)に記されたもので、「伝聞、再改」の奥書と別当西光山勝蔵院良天代及び名主等の連署がある。
巻頭には、垣山女存、罔象女尊(文間大明神両社)、句々廼知命(布川大明神)、軻遇槌命(布佐大明神)、金山彦命(布瀬大明神)の相馬五行の社をあげ、ついで、武内大明神勧請のこと、森田左右衛門にかかわる白蛇出現の伝承及び神託によって武内明神を竹内と改めて六月十五日を祭礼の日と定めたこと、その日の神供は小麦のこわ飯に韮の鯖生酸と竹の子を献ずること、享保二十一年(1736)に正一位竹内大明神の称号を許されたこと、安永年中(1772~1781)の社殿修営のときに承平の年号と大工摂津国住人の記銘のある旧材を発見したこと、また、別当は勝蔵院で、本地は観世音菩薩であること、延喜式内社である相馬蛟蝄神社の神官が祭礼に奉仕したこと、さらに、地領は寛永七年(1630)の土井大炊頭検地のとき壱反六畝廿歩が除地となったことなどが記されていて、由緒来歴が分る。

森田左右衛門にかかわる自蛇出現の伝承というのは、左右衛門(多右衛と記すものもある)が宮作台の畑で麦の刈りとりをしていたところ、にわかに雷雨となったため、刈りとった麦を積みあげておいて帰り、翌日行ってみると、一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていて、とり入れができない。これは、ただごとではないとて、行者が愛宕神社に祈ったところ、「武内神社を此の地に移せ」との神託があって、さっそく遷座し、社名も竹内神社と改めたというのである。
愛宕神社は竹内神社の元宮といい伝えられており、「武内神社は此の地に移せ」というのは、現在の竹内神社の立場から現社地の宮作台を此の地といったと解されよう。

この異変のあった年代については、「由来記」に明記されていないが、社伝では、文禄二年(1592)癸巳六月とされている。ついでながら、『相馬霊場案内』には「竹内神社宮作と称する処に鎮座してある、祭神天迦具土命にして、文禄二年の創建にかゝりしものであるといふ、毎年例祭九月十四、五、六日の三日間を以て、之を行ひ、郷社なるの故を以て、県より神饌幣帛料の献進がある」と記されている。

文久元年(1861)奉納の絵馬に描かれた当社の景観には、田の中に参道が通じ、石段を登った岡の上に社殿がみえている。それは、近年の土地造成による変化は別として、今も同じである。かくして、当社は布佐一円の鎮守として崇敬され、さかんな祭礼が年々執行されてきた。

なお、当社は、安永四年(1775)に相馬霊場第二十一番阿波大龍寺写しとなり、本尊は竹内明神とされていた。しかし、明治初年の神仏分離によって、霊場を勝蔵院に移すこととなり、大正初年にそれが実現した。

明治の「神社明細帳」には「郷社、社殿間数間口六間四尺奥行五間五寸」と記されている。この建物は、文久元年(1861)、明治十二年及び国二十二年の参詣絵馬によって、おぼろげながら面影をしのぶことができる。それが昭和八年に改築され、さらに五十四年に修築されたのが現社殿で、本殿と拝殿を幣殿で結ぶ権現造形式となっている。

本殿は、流造、銅板葺で、棟に千木と勝男木を置く。
拝殿は、入母屋造、瓦葺で、廻縁をめぐらし、向拝がある。さらに、向拝に向って右側に入母屋の小屋根の下屋がついている。これは、拝殿の一部をひろげて社務所に宛てた部分である。
鳥居は、石造明神鳥居で「奉造立鳥居講中当村氏子中」とあり、文政十年(1827)に造建された。
当社には、随身像の残欠が保存されているが、その胎内に「文政八酉年(1825)十二月吉日、大仏師押戸杉山林哲、五十六才」の墨書がある。江戸時代以来の旧社殿に配されていたものであろう。なお、鼻の欠けた天狗面もあり、その面裏に「天保乙未(1835)四月大吉祥日、細工人杉山林哲」と墨書されている。当社の旧神輿は享保二十一年(1736)に調達されたといわれ、さかんな神輿の巡行が行われてきた。その先導役の猿田彦の仮面の旧物である。

当社には高台稲荷社、谷山権現(総神社)、神明社、御嶽社、三峯社、天神宮、I白山社、琴平宮、水天宮などがつぎつぎに合祀された。それらのうち、社殿数棟が境内にある。
御嶽神社社殿は、大正五年の再建で、千木と勝男木をあげた切妻造の本殿と切妻造向拝付の拝殿が相の間で結ばれている。高台稲荷社は布佐字高台旧在の稲荷社を明治四十四年に遷宮したもので、慶応三年(1867)在銘の石造明神鳥居や安政四年(一八五七)在銘の石造燈籠及び石造の狐などもここに移されている。社殿は、昭和五十四年の修築で、寄棟造、瓦葺、向拝は庇屋根の簡略な造作である。天神宮は、流造、鉄板葺の小形社で、前の半分に木階がかかり、その奥が扉付の身舎となっている。神明神社も、流造、鉄板葺の小形の祠で、木階を登った奥が身舎となっている。この杜は、昭和五十九年に中町旧在の同社を移転再建したもので、旧社は元禄九年(1696)鎮座のものであるとの由緒が銘板に記されている。

我孫子市史 民俗・文化財篇より

 

神事・祭事

2月17日/祈年祭
9月14日~16日/例祭




参拝情報

参拝日:平成29年1月3日
平成29年1月15日

御朱印

御朱印の初穂料は300円。拝殿右手の授与所でいただくことができる。

なお、兼務社である葺不合神社(我孫子市)素羽鷹神社(栄町)の御朱印もいただくことが出来ます。

授与品・頒布品

[竹内神社 絵馬]

歴史考察

愛宕神社境内に祀られていた竹内神社

竹内神社の創始は承平年中(931~938)といわれ、愛宕神社の一角に武内社として祀られていた。竹内神社の御祭神が天之迦具土命であり、愛宕神社と同じであることからも、その関係性が窺える。その後、神託により愛宕神社を元宮とし、現在の地に遷座、社名も竹内神社と改めた。文禄二年(1593)のことで、竹内神社の創建の年とする。

<愛宕神社> 愛宕神社は火防の神といわれ、竹内神社の元宮である。茨城県利根町文間郷の蛟蝄神社は旧相馬郡における唯一の延喜式内社で、文武天皇二年(698)創建の古社であるが、愛宕神社は同社と由縁があると云われている。

 

竹内神社遷座の神託とは

伝承によれば、この地の森田左右衛門が宮作台の畑で麦の刈り入れ時に、雷雨となり、麦をそのまま積み上げて帰り、翌日行くと一夜にして竹の子が生え白蛇がとぐろを巻いていた。驚いて行者が集まり愛宕神社に祈ると、「武内神社をこの地に移せ」との神託があり、さっそく、愛宕神社を元宮とし、この地に遷したというものである。『相馬霊場案内』には「竹内神社宮作と称する処に鎮座してある、祭神天迦具土命にして、文禄二年の創建にかゝりしものであるといふ、毎年例祭九月十四、五、六日の三日間を以て、之を行ひ、郷社なるの故を以て、県より神饌幣帛料の献進がある」と記されている。

 

正一位竹内大明神の称号

享保二十一年(1736)に、正一位竹内大明神の神位を受けた。おそらく、竹内神社として、神位、社格、境内の整備、経済的基盤等が整った頃であったものと推察される。

 

竹内神社例祭

竹内神社の例大祭は、享保年間(1716~1735)に発祥した伝統ある祭りです。地元の上町(かみ町)・布佐1丁目・2丁目・3丁目・大和町の5地区のうち1地区が持ち回りで当番町を受け持ち、神社神輿を担ぎます。9月14日~16日(現在は9月第三土曜日から三日間)の三日間行われます。14日の御輿渡しの神事で始まり、15日お仮屋へ安置、16日は御輿と五基の山車が賑やかに町内を練り歩き、夜に神社へ奉納。特に15日、16日夜の山車囃子方の競演は「競争」といわれているという。その技量を競い合うさまは見事であり、布佐の祭りの盛大さは我孫子市内でも屈指のものである。竹内神社には鼻の欠けた天狗面もあり、その面表に「天保乙未(1835)四月祥日、細工人形山林哲」墨書きされている。旧御輿は享保二十一年(1736)に調達したといわれ、さかんな御輿の巡行がおこなわれてきた。その先導役の猿田彦の仮面の旧物である。猿田彦(サルタヒコ)は、日本神話に登場する神導きの神様の代表格。鼻が異様に長く、サルのような面持ちであったようで天狗のような顔をしていたようだ。祭礼では天狗のお面を被った猿田彦が未だ先導役を担っている。

例祭は昭和十二年から二十年まで中断したが戦後復活した。往古に在りては、六月十五日を以って祭儀を執行し、立木村の文間明神蛟蝄神社より神饌幣帛を移献し壮厳なる式典を以って、祭祀を行いたりと雖も今は其の点廃たれたり中古に至り社人なきを以って寺院別当或いは蛟蝄神社神官の奉仕するところとなった。尚、江戸期から明治にかけて例祭には御輿・神劒・獅子・御榊・神馬の渡御をなす例たりしが近年は御輿・神鏡・金幣・山車になっている。

 

竹内神社神輿

竹内神社の旧神輿は享保二十一年調進のもので、寛政十三年(1801)に大修理を加えたが、昭和五十四年に焼却された。現在の御輿は明治二十八年九月十四日新調、昭和三十四年に修繕された。神輿は安政三年(1850)、百五十年前に大きくつくり変えたるものと中柱に記されている。台輪幅は120センチで大きく重厚な神輿である。屋根と台輪の幅はほぼ同じであり、また屋根紋(三紋)が非常に薄い。

 

河岸の街として栄えた布佐

『利根川図誌』によれば、その味利根川一と賞された布川鮭(現在の茨城県利根町で獲れた)の網場。網代場はやがて利根水運の中継地ともなり、布佐河岸ができた。江戸時代、銚子や九十九里方面から運ばれる鮮魚をここで荷揚げし、一刻も早く日本橋市場に出すため松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚(なま)街道の起点となった。元禄から正徳期には既に五軒の河岸問屋があったという。宝暦期には六斎市もたち、江戸や近郷との商取引も活発であった。盛時には、1日4000籠の鮮魚を130~150頭の馬で運び、七里半の街道には馬子唄も流れたという。布佐河岸では、幕府川船役所からの極印を受けて「船役永」を上納し、船運送業に従事する船持ちが集住する村で、江戸への物資輸送にあたっていた。現在、竹内神社内に合祀されている「船持中」の人々によって祀られていた「水天宮」や「稲荷社」の「日本橋魚河し」と一際大きく太字で彫りこまれている御手洗石等を見ると、菓子の町布佐の繁栄が偲ばれる。

布佐河岸には河岸問屋株は認められておらず。布施河岸のように諸物資を自由に陸揚することは制限されており。また、木下河岸のように旅人船を仕立てることは、許可されていなかったが。布佐河岸には、年貢米や村用の公用の物資の船積み、および鮮魚荷物に限定して、陸揚げ・駄送が公認されている。鮮魚輸送に際しては、木下河岸の駄送が行徳までの宿継輸送であったが。布佐河岸の駄送は、松戸まで付通し(宿継なし)での輸送が特認されていた。

 

鮮魚街道

江戸時代、江戸の人口増加は生鮮食品の需要を急増させました。そのため遠く九十九里や銚子沖の魚介類も江戸に供給されるようになり「なま船」という鮮魚舟運が始まります。銚子方面からの水運はどうしても関宿回りになるため鮮魚輸送には時間がかかります。そこで、利根川側の木下河岸から白井・鎌ヶ谷・八幡を経て江戸川側の行徳河岸までを馬で運び時間短縮を図りました。その後、銚子や九十九里方面から運ばれる鮮魚を布佐河岸で荷揚げし、一刻も早く日本橋市場に出すため松戸河岸まで馬で陸送する経路が多く用いられるようになりました。この陸路を鮮魚(なま)街道と呼び、布佐河岸は鮮魚街道の起点となりました。

 

松尾芭蕉と布佐

松尾芭蕉は貞亨四年(1687)、弟子らと行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井を経て布佐に到着。漁家で小休し、布佐網代場から船で鹿島神宮に向かっている。『鹿島紀行』には、「日既に暮かかる程に、利根川の畔、布佐という処に着く。この川にて鮭の網代というものを巧みて、武市の市にひさぐ者あり、宵の程その漁家に入りて息ふ、夜の宿なまぐさし」と当時の布佐の様子が記されている。




境内案内

文政十年建立の明神鳥居

松並木参道を右手に布佐中学校を眺めながら進むと、社号標と石造りの明神鳥居が見える。松並木参道は享和二年九月光格天皇1801年と石碑がある。鳥居は文政十年の(1827)銘が彫られており、歴史を感じる鳥居である。

 

子連れ唐獅子

青森以外では珍しい、蹲踞でも構えでも無い狛犬(唐獅子)。石工・兼吉作で子連れ唐獅子として子宝に恵まれ子孫繁栄の御神徳があると近郷近在には珍しく有名である。

 

文久三年再建石坂

文久三年辛酉年九年(1866)、御影石で五十三段ある。石工・兼吉の手により石坂が再建された。当時は別當勝蔵院十三世現在歡静代の管理するものと石坂再建記念碑にある。

社殿

本殿・幣殿・拝殿からなる。明治二十二年奉納絵馬には茅葺社殿に描かれている。昭和八年九月二十一日改築、昭和五十四年修復されたのが現社殿です。本殿は、方一間、向拝付、流造、瓦葺、透塀をめぐらす。拝殿は三間二間、廻縁、向拝付、入母屋造り、瓦葺。

神社写真帖

[ 鳥居 ]

[ 手水舎と手水鉢]

[ 拝殿]

[ 本殿 ]

[ 扁額]

[ 狛犬 ]

[ 飛び狛 ]

[ 日本橋魚河しの手水鉢 ]

[ 神明神社 ]

[ 御嶽神社 ]

[ 三峯神社と庚申塔 ]

交通アクセス

◇成田線布佐駅 徒歩15分

[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。



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