目次
沿革・概要
我孫子市中里に鎮座する中里諏訪神社です。天正四年(1576年)の創建で、旧中里村の産土として奉祀されてきました。明治41年には、熊野神社、外川神社、山王神社、水神社、稲荷神社、弁天神社が合祀された。創建から江戸時代までの詳細は古文書や記録の類が残っていないため不明ですが、元旦の元朝詣り(がんちょうまいり)、正月七日の御備社(おびしゃ)などの伝統行事が今なお続いていることから、旧中里村の鎮守の社として村民の信仰を集めている神社であることが窺われる。
神社情報
中里諏訪神社(なかざとすわじんじゃ)
御祭神:武御名方尊
社格等:村社
例大祭:10月上旬の日曜祭日
鎮座地:千葉県我孫子市中里667
最寄駅:湖北駅(JR成田線)
公式サイト:ーーー
<御祭神:武御名方尊> 日本神話中の出雲系の神。諏訪大社上社の祭神として知られる。大国主神の子。天孫降臨に先立ち高天原から遣わされた武甕槌神と力比べをして争ったが敗れ、信濃の諏訪の海(諏訪湖)にのがれ、ここに閉居することで帰順した。諏訪大社上社に祀られている。
御由緒
当諏訪神社の創建は古く、戦国の世が漸く終わろうとする、天正四(1576)年三月のこととされる。祭神は「武御名方尊」である。武御名方尊は、祖父を須佐之男命、父を大国主命とし、本社諏訪大社のある信濃国(長野県)の開発に尽力した神として知られる。創建から江戸時代までの詳細は、当神社に関する古文書や記録の類が全くなく、残念ながら不明とせざるを得ない。しかし当神社が村民の寄合や諸祈願・祭礼の場、すなわち中里村の鎮守社(土地を守る神)として、村民の信仰を集めていたことは間違いない。
「湖北村誌」によれば、当神社の規模は、大正九(1920)年の時点で境内坪数が五百三十五坪、氏子戸数五十戸、采田(神田)が六畝四歩とのことである。また、明治四十一年十二月二十六日には、北島原にあった熊野神社(天正五年一月創建)・外川神社(天保二年三月創建)・山王神社、六番作の水神社、南原の稲荷神社、弁天作の弁天人じゃが当諏訪神社に合祀されている。
現在の社殿は、大正十五年建立の社殿老朽化に伴い、氏子総代・中里区民その他有志の協力により、平成十六年十二月に再建されている。社殿は本殿(二・五坪)、祝詞殿(三坪)、拝殿(八・七五坪)からなり、いずれも銅板葺きで本殿屋根上に千木一対、鰹木六本を備えた堂々たるものである。また鳥居(明神鳥居)には「明治三十五年六月」の年紀が刻まれている。
当神社に関わる伝統行事には、元旦の元朝詣り、正月七日の御備射、二月の初午(稲荷祭)、十月の例大祭、十一月の七五三などがある。とくに例大祭には子供神輿が中里区内を練り歩き境内では厳粛なる神事のほか素人演芸会が催されるなど、中里区民のみならず湖北地区住民交流の場として、毎年盛大に挙行されている。また元朝詣りでは、初詣客に甘酒が振る舞われ、その行列は境内からあふれるほどの賑わいをみせている。境内掲示板より
神事・祭事
1月1日/元朝詣り
1月7日/御備射
2月初午/稲荷祭
10月初旬/例大祭
参拝情報
◇参拝日
平成29年12月16日
平成30年1月2日/初詣
御朱印
御朱印の初穂料は300円。本務社である天照神社でいただくことができる。
歴史考察
旧中里村の産土として創建
中里諏訪神社は名前の通り旧中里村の鎮守として天正四年に創建された。この時期は、我孫子にも武将が進出し各地に城郭を構えていった時期でもある。中峠から中里、古戸村あたりは河村出羽守の勢力範囲であり、ほぼ同時期に創建された中峠八幡神社、古戸稲荷神社とともに河村出羽守が創建に深く関わっていると伝えられている。
隠密の「道」“かまくら道”
中里諏訪神社の側には鎌倉武士の隠れ路といわれる“かまくら道”が走っている。源頼朝は治承4年(1180)に鎌倉に本拠を置き、中央集権のため路づくりに着手した。鎌倉を中心として放射状に鎌倉道(鎌倉街道)が走らせた中世以来の古道で、“かまくら道”はその下の道(鎌倉から常総地方へ通ずる)の枝道であったと思われます。
「利根川・手質沼と湖北」によれば、湖北を通る鎌倉道は康平年間(1058~1064)八幡太郎義家が、奥州征伐の折通過した旧道であると伝えられています。湖北手賀沼側を這う“かまくら道”は、井戸に近い所、八幡宮、諏訪、氷川、熊野神社、禅宗、日蓮宗などの社寺の近くを通り、隠密行動のできるように工夫されていると言われています。従って、官道としての鎌倉街道とは区別して間道と考えられているようである。
[ かまくら道 ]
中里村の鎮守社として
中里諏訪神社の詳細は、創建から江戸時代までの古文書や記録の類が残っていないため、どのような歴史を経てきたかがわからない。明治13年の「神社明細帳」に記載された神社は、郷社1社、村社18社および無格社8社であるが、この中に中里諏訪神社の名が記載されている。氏子数が53戸と周辺の神社と比べると氏子の数は少ないのがわかる。
1896年(明治29年)頃の古地図では、旧中里村は田畑や山林が広がる地区であるのがわかる。中里諏訪神社は旧中里村の中心に位置しており、近隣の将門神社や天照神社と同様、地区の中心的な神社であったと思われます。
[ 今昔マップ on the webより ]
その後、明治39年の勅令および内務省通諜により神社の1村1社への整理統合が進み、熊野神社、外川神社、山王神社、水神社、稲荷神社、弁天神社が合祀され、今の中里諏訪神社となった。
中里諏訪神社伝統の祭礼
旧中里村には星野家という江戸時代初期からの旧家がある。現在は、明治30年頃の造られた間口12軒、奥行3軒入母屋造り瓦葺き2階建の長屋門が旧家であったという面影を残している。当然ながら中里諏訪神社との関わりも深いと考えられる。
中里諏訪神社の例祭は、約30年ほど前より子供神輿が中里区内を練り歩き境内では厳粛なる神事のほか素人演芸会が催されるよになった。子供神輿は神社を出て地区内を練りあるくのだが途中、星野家の庭先で休憩し中里地区の終わりである中野屋商店で折り返し神社へ戻るコースを辿る。現在では中里区民のみならず湖北住民の交流の場として毎年盛大に挙行されている。
所感
天正四年の創建であるが、あたりは平将門伝説が残る地域に近く、神社のすぐ脇を“かまくら道”が通っていることからも、人の行き来が頻繁にあった地域であることが窺える。残念なのは創建から江戸時代までの古文書や記録の類がないことから、神社がこの地域に根付いていく様子は知るよしがない。神社には石造物や石祠が多く、合祀された神社以外の信仰の対象も多く見受けられる。例大祭に代表されるように、祭事も地元に密着しており、また地元の方々もこの神社を大切にしている様子が窺える。このように地元に愛されている神社が残っていることは非常にうれしく思える。
神社写真帖
[ 境内全景 ]
[ 鳥居 ]
明治三十五年に造立された石造りの神明鳥居ですが、古さを感じさせない綺麗な鳥居です。
[ 提灯 ]
[ 手水舎 ]
[ 社殿 ]
社殿は、大正十五年に拝殿の修繕と本殿の改築が行われ、昭和三十年にも修理され現在に至っている。拝殿と本殿を相の間でつなぐ形式で、拝殿は切妻造、鉄板葺、向拝付、本殿は切妻造、鉄板葺です。
[ 扁額 ]
扁額は「諏方神社」となっています。古地図にも「諏方神社」と記載されていることから、元々は「諏方神社」の表記であったものと思われる。
[ 狛犬 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 三峯神社 ]
[ 八幡神社 ]
[ 熊野神 ]
[ 石碑 ]
交通アクセス
◇JR成田線湖北駅 徒歩15分
[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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