目次
沿革・概要
千葉県君津市浦田(上総国望陀郡)に鎮座する久留里神社です。旧社格は郷社。史伝では、平将門が勧請したといわれる両総六妙見(千葉・飯高・印西・周西・横田・浦田)の一社とされている。神社の由緒には、治安元年(1021年)、久留里城主上総介平忠常(千葉氏の祖先)が浦田妙見堂として勧請とされている。いずれにせよ、妙見信仰と千葉氏とのかかわりが深い神社であることは間違いなく、事実、千葉氏が守護神として祀っていた妙見様の本宮 千葉神社の真南に位置している。久留里城築城後は、小櫃川と三の丸に挟まれた侍屋敷にあり、歴代城主が武運を祈願したといわれている。神社の裏手は、戦国時代、北条氏と里見氏との間で激戦が繰り広げられた地とされている。
久留里は平成の名水百選の町にも選ばれている名水地で、神社の境内でも御神水として水が湧き出ている。また久留里神社本殿は神仏習合時代の名残を伺わせる建築物であり君津市指定文化財(建造物)である。
神社情報
久留里神社(くるりじんじゃ)
御祭神:天御中主命
合祀 :伊邪那美神 天照皇大神 少彦名命 応神天皇 日本武尊 大己貴命 市杵島比賣命 木花之開耶比賣命 菅原道真
社格等:郷社
例大祭:7月22日
鎮座地:千葉県君津市浦田15番地
最寄駅:久留里駅
公式サイト:―
御由緒
久留里神社は、はじめ細田妙見と言い、細田山妙見寺という真言宗の寺院に属していました。明治維新の際、神仏分離令によって妙見菩薩を天之御中主命として明治四年に郷社に列せられました。
細田妙見は平安中期の治安元年(1021年)千葉氏の祖先上総介忠常が細田妙見宮を創建。その159年の後、治承四年(1180年)石橋山の合戦で敗れた源頼朝が房総に渡り、東六郎大夫胤頼を道案内にして細田妙見にたどりつき、三日泊まり戦勝祈願をしました。
数日すると千葉介常胤一族が一万の戦士を率いて頼朝に拝謁し、味方に加わり神前に誓われました。これにより頼朝は戦勝を重ね、関東の兵は残らず旗下に属しました。建久三年(1192年)鎌倉幕府創建に千葉一族が貢献した恩賞として、東六郎太夫胤頼に上総の国望蛇の地を与え、名を久留里左右衛門と改めさせました。源頼朝は戦勝祈願成就として細田妙見の立て替え仰せ出され、建久三年(1192年)久留里戸張に細田妙見宮を7月22日に遷宮しました。この久留里戸張が現在の久留里神社の所在地となり、現在も例大祭の日になっています。
このとき、文覚の弟子頼忠上人を別当とする。治安年中、創建の地は細田と称して今に古跡がある。歴代の久留里城主武田氏、里見氏、大須賀氏、土屋氏、黒田氏などは皆当社に武運を祈願されたといわれます。大正元年9月日本武尊・市杵島比賣命・木花之開耶比賣命・大己貴命を、同2年6月伊邪那美神・天照皇大神・少彦名命・應神天皇を、同年9月菅原道真命を本社に合祀する。
久留里神社御由緒より
神事・祭事
7月22日/例大祭
参拝情報
参拝日:平成30年5月5日
御朱印
御朱印の初穂料は300円。
参道右手の授与所でいただくことができる。
なお、授与日はtwitterなどで告知されます。
歴史考察
平将門建立の伝説
久留里神社の創始は平将門が建立したという言い伝えがある。この言い伝えについては、この地方に残る「久留里記」に次のように記されています。
◇浦田城(久留里城)の城始めと六社妙見社のこと
ある時、将門が「おもが池」というところでお出になられたところ、この池のほとりに輝くばかり美しい一人の乙女が休んでおられた。将門は不思議に思し召され、近くに立ち寄ってご覧になると、この方こそ高い高い空から舞い降りた天女であって、~中略~。将門はこの天女を妙見菩薩とあがめられ、千葉、飯高、印西、周西、横田、浦田等に六ヶ所の妙見社を建立された。これが下総・上総の六社妙見であって現存している。
この平将門が建立したといわれる六社妙見社のうち、浦田が久留里神社と言われている。ちなみに六社妙見社のうち印西はどの神社を比定するかは不明である。
[ 久留里神社所蔵 平将門 天女対面図 ]
史実における久留里神社の創建時期
「久留里記」にある平将門による建立は伝説の域を出ないと思われます。史実によると、治安元年(1021年)久留里城主上総介平忠常が浦田妙見堂として勧請したという。北辰と天御中主命を御祭神とする妙見社で千葉六妙見の一社で千葉氏の氏神として栄え、御神体は亀に乗った武神である。ちなみに、治安年間に創建された当時の場所は、現在地に隣接する場所にあり、細田と称されている。
千葉氏との関係性
久留里神社を創建した平忠常は千葉氏の祖にあたる人物である。平忠常自身は「平忠常の乱」を起こしたが、子孫は房総半島の有力武士として残り、上総氏や千葉氏として活躍した。千葉氏の勢力は現千葉市を中心に下総地方に広がり、上総地方は久留里あたりが南限と言われている。千葉氏とかかわりの深い神社は、妙見社と名乗るか、社紋が月星紋、九曜紋であることが多い。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に渡り、この久留里神社で戦勝祈願を行ったといわれている。これには千葉常胤も同行していたといわれている。その後、征夷大将軍になった源頼朝の命に応じ、建久3年、千葉介頼胤が再建したという。久留里神社は千葉氏の家紋である月星紋や九曜紋が多数見ることが出来、また、千葉氏が守護神として祀っていた妙見様の本宮 千葉神社の真南に位置していることから、ここでも千葉氏との関係の深さが窺える。
源頼朝が戦勝祈願
鎌倉時代の建久3年(1192年)7月22日、源頼朝が真鶴より勝山に上陸した時に戦勝祈願し、征夷大将軍となった後、文覚の弟子頼忠上人を別当として祭典を執行したことから、この日が久留里神社の大祭日としている。
[ 京都神護寺所蔵 伝源頼朝像 ]
歴代久留里藩主からの崇敬
甲斐武田氏の流れを汲む武田真勝や戦国後期、北条氏と関東の覇権を巡って対立した安房の里見義堯をはじめ、江戸時代には大須賀氏・土屋氏・酒井氏などの領主が武運を祈願し、信仰も篤かった。享保2年(1717年)に入封した黒田直純によって久留里城築城の願文が奉納され、以後歴代藩主が崇敬してきた。
[ 久留里城 ]
神馬の絵馬
久留里神社には黒田第五代豊前守直方により奉納された「神馬の絵馬」がある。直方の妻 久子の方が17歳の若さで急死した。直方は感ずるところがあったのか、城下の絵師神谷由英に神馬を画かせて、文化二年八月、細田妙見に奉納した。当時、直方は直服と名乗っていたが、同日付をもって、名を直方と改めた。
[ 久留里神社奉納 神馬の絵馬 ]
御誓文の奉納
久留里城築城にあたり、寛保3年(1743年)8月22日、鍬入式が行われた。この鍬入式当日の願文(起請文)が久留里神社(細田妙見)に奉納された。国家太平、武運長久、子孫繁栄を祈願した内容となっている。
水の町 久留里
久留里城の城下町として発展した久留里は、「平成の名水百選」に選ばれるほどであり、「生きた水・久留里」は重要無形民俗文化財にも指定されている「上総掘り(かずさぼり)」という井戸掘り技術によって地下水をふきださせたもので、古くから飲み水や農業用水に使われてきました。町内には200以上の水汲み場があり、久留里神社でも境内の御神水を汲むことができます。
久留里の夏祭り
城下町久留里が熱く熱く盛り上がる夏まつり。この祭りでは久留里駅前と久留里商店街を舞台に県内でも有数の大きさの4基の山車の引きまわしが行われます。かつての城下町を山車が移動する様子は大変勇壮で勢いのあるものです。
久留里神社では、例大祭のうち神事は7月22日に行われます。近年は神輿渡御については必ずしも例大祭日とはならず、7月22日前後の土曜日に「久留里夏祭り」として開催されています。
所感
名水百選に選ばれた久留里を代表する神社。浦田妙見堂として勧請されて以降、日本の歴史に名を残す人物とのかかわりが深い。特に鎌倉時代から室町時代にかけて千葉氏との関係が深く、上総国の中でも妙見信仰の中心的な神社と言っても過言ではない。また、歴代の久留里城主からも篤く崇敬されており、重要な場面において久留里神社の名が登場することからもそれがわかる。神仏習合の名残が見える社殿は、一見するとアンバランスな雰囲気をうかがわせているが、逆にこれが他の神社にはない希少性なのかもしれない。穏やかな街の雰囲気の中にも久留里城と共に存在感を示しているところは、久留里の町の人々にとっても誇りなのであろう。
[ 久留里城から久留里神社を望む ]
境内案内
一の鳥居
久留里駅から国道410号線を南に向かうと、「雨城庵の井戸」が見えてくる。その先に久留里神社の社務所、駐車場があり、扁額「久留里神社」を掲げた朱・黒の一ノ鳥居(両部鳥居)が見えてきます。
歴史を感じる随神門
久留里神社由緒には平成5年の修理の記録のみで、以前の修理等の記録がありません。柱には根継がありますが、この修理時期は不明です。棟札に弘化三年とあることから、この時期に建立されたものと伝えられています。
構造形式は、三間一戸、桟瓦葺の八脚門、和様式である。
中備は「雲に龍(正面中央)」「波に犀(背面右)」「虎(背面左)」で透彫りの本蟇股。正面左右には浮彫りで九曜紋の板蟇股。背面中央には直物のモチーフの蟇股状の中備がある。
久留里神社社殿
神仏習合の名残をうかがわせる社殿は、拝殿と本殿を後世に連結したものである。本殿は入母屋造り、銅板葺き、二軒(ふたのき)の繁垂木(しげだるき)である。平面構成は桁行梁間とも実長6.3メートルの三間社である。長押(なげし)、頭貫、台輪(だいわ)をつけ、柱上には平三斗(ひらみつど)、柱間上部蟇股(かえるまた)を備えている。床高は95センチで和様高欄の回縁がつき、正面中央の内法は178センチである。柱間装置は、正面は拝殿に向かって開放され、内部は広い一室空間で床は拭板敷き、天井は格天井である。
本殿は妙見堂として建てられたものであり、社殿建築における「本殿」の構成とはやや異なった点がみられる。空間内の配置においても、現に中央正面に「海老の腰」のついた禅宗様の須弥壇(しゅみだん)が置かれ、その上に千鳥破風つき、二軒、繁垂木、二手先斗などを備えた禅宗様の厨子があり、これを「宮殿」としており神仏習合時代のなごりをうかがわせる。この本殿は江戸後期に、この地の城主黒田氏の援助によって改築されたものと伝えられる。
御神水
平成の名水百選の町である久留里。久留里の町のいたるところに水汲み場があり、名水を汲むことができます。久留里神社の境内にも御神水と呼ばれている自然水が湧き出ています。水の里らしく、その水量は豊富で、パワースポットとしてこの御神水を求める観光客も増えています。
亀の鎮魂碑
久留里神社は、そのはじめ細田妙見と称して、千葉氏の祖先忠常が久留里築城の際、守護神として妙見宮を迎えお祀りしました。妙見宮は北極星を神格化した神さまで、その御神体は亀に乗った武人であります。亀は五行思想から四方神の内、玄武神と言って北の魔よけとして尊重されています。妙見様と亀は同じ北の方位を守る神として亀は妙見様のお使いとして尊ばれてきました。この地に眠る多くの亀の神霊を鎮め賜うことを祈念してこの碑を建立したようです。
神社写真帖
[ 鳥居 ]
[ 提灯 ]
[ 手水舎 ]
[ 社殿 ]
[ 本殿 ]
[ 扁額 ]
[ 天狗面 ]
[ 拝殿内 ]
[ 馬師皇と龍 ]
[ 御神水 ]
[ 神輿庫 ]
[ 狛犬 ]
[ 随神門 ]
[ 石燈籠 ]
[ 亀の鎮魂碑 ]
[ 石碑 ]
[ 九曜紋 ]
[ 随神門から一の鳥居を望む ]
交通アクセス
◇久留里線久留里駅 徒歩15分
[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
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