目次
沿革・概要
我孫子市新木に鎮座する葺不合神社です。国道356号線沿いにあるが、奥深く起伏のある境内の森厳の気が漂う旧村社です。鵜葺草葺不合尊を御祭神とする神社は宮崎や九州の海沿いで見られることがあるが、東日本では非常に珍しい。もと、五郎池の明神の森に鎮座し、沖田神社とも呼ばれ、下新木旧沖田村の村社であった。境内には、湖北の七つ井戸(大日の井戸)の一つ弁天の井戸もありました。明治期の神社合祀や、開発などにより近在から移された白山社・水神宮・妙見社・三峰社・蚕影山神社などが回遊式に祀られ大変趣のある神社です。鳥居、本殿、拝殿は平成24年3月に我孫子市の有形文化財に指定された。特に、本殿の昇り龍と降り龍の彫刻は特筆するものがある。
神社情報
葺不合神社(ふきあえずじんじゃ)
御祭神:鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
相殿神:市杵島比売命、日本武尊、白山比売命
社格等:村社
例大祭:10月1日
鎮座地:千葉県我孫子市新木1812
最寄駅:新木駅(成田線)
公式サイト:―
<御祭神:鵜葺草葺不合尊> 記紀神話に登場する神。火遠理命(ほおりのみこと)と海神の娘豊玉姫(とよたまひめ)の子。鵜の羽で葺(ふ)いた産屋(うぶや)がすべて葺き終わらぬうちに生まれたための名であるという。おそらく,ウブヤの意味のウムガヤ(産むが屋)が転化してウガヤとなり,そこから〈鵜の羽を葺草(かや)にして〉(《古事記》)の説話が生まれたらしい。この神は玉依姫(たまよりひめ)をめとって神武天皇を生む。
御由緒
当社は、鵜葺草葺不合尊を祭神とする例の稀な神社である。もと五郎地の明神の森に鎮座していて沖田神社と称されていた。祭神から考えてみると、このあたりまで海が浸蝕していた古代に海を渡ってきた人びとによって草創されたものかもしれないという見解もある。
当所は、もと厳島神社の境内地で、『湖北村誌』には「元暦三年(1186、文治二年に相当する)の創建に係ると伝へらる竹内無格社厳島神社」とあり、平安時代末期に市杵島比売命がまつられていた。参道は低地に向って下り、そこに水の湧く池があって、後背部が高い傾斜地になっている。その高いところに弁天堂(現在の拝殿)が建立されたのは、明和年代のことで、明和元年(1764)の「弁天堂奉加帳」があり、いまみる建物はその年代とみるにふさわしい。こうして、厳島神社は柏市の布施弁天とならぶ弁天の信抑で発展した。
相馬霊場の設立は、安永五年(1776)で、第七十七番讃岐道隆寺写しとされ、本尊は聖観世音となっている。
明治の「神社明細帳」には、無格社厳島神社として、「社殿間数 間口四間 奥行四間三尺」と記されている。奥行は向拝部を含む長さであろう。
ここが葺不合神社となったのは、明治三十九年の神社合祀令によるのであって、明細帳には、村社葺不合神社と訂正し、四十一年に字宮前の村社葺不合神社及び同字の三嶋神社をここに合祀し、祭神に鵜葺草葺不合尊、白山比売命及び日本武尊が加えられた。その経緯について、社掌千浜宗輔撰文の合祀記念碑には「此度村社なる葺不合神社を始め白山神社三峰神社を清く風致よき厳島神社に移し合せ祀りぬ」と記してある。
鳥居は、一の鳥居が昭和八年の再建、明治十五年銘の二の鳥居は、旧在地五郎地から移されたもので、ともに石造明神鳥居である。
葺不合神社の移遷に際しては、再建されて間もなかった本殿が旧在の五郎地から数百mの距離を曳かれてきたという。
本殿は、方一間、流造の正面に千鳥破風があり、向拝前面を唐破風とする瓦葺である。身舎の正側面には高欄つきの縁があり、正面の扉、側背面の板壁、脇障子、縁床下、向拝のまわりが神話や瑞象の図様彫刻で飾られている。
明治三十年二月の建立で、大工新木村田口末吉、木挽根本米吉、彫刻師後藤藤太郎(北相馬郡北方住)と知られ、木挽の名もあげられているのは地元の樹木を伐って用材としたことを思わせる。建物は覆屋根をかけ、透塀で囲って保護されている。
拝殿は、本殿の前方傾斜地の中腹に建っている。これが旧厳島神社の弁天堂で、方三間、入母屋造、向拝付の建物である。屋根は、もとの茅葺の形をそのまま銅板で包みこんである。軸部の円柱は太くたくましく、柱間三間の前一間通りは建具を取りはらって吹放ちとし、後部の左右の間に厳島の神と御嶽社を配し、中央間を半蔀として、後方の本殿を拝することができるようになっている。
身舎の周壁をみると、正面中央の壁に天女の舞姿らしい彩色画があり、各間の小壁から支輪の部分にかけて草花鳥獣の彫刻を配して彩色をほどこし、向拝柱に麻の葉文を刻み、虹梁、木鼻にも手のこんだ彫刻があって、弁天堂にふさわしく華やかである。
境内にはおこもり堂があって、脇の間に仏像数体が保存されている。その中に甲胄姿の武神坐像がある。両腕と膝の部分が欠損しているが、眉をつり上げ、口元を強く結び、右腕を振り上げていたらしいところなど、根戸妙蓮寺の妙見尊とよく似ており、これも、明治の廃仏毀釈で流出したものと考えられる。ただし、由緒や伝来については明らかでない。
大師堂は、方一間、向拝付、切妻造、瓦葺で、昭和四年の再建、堂内安置の石造大師像は文化四年(1807)の造立である。我孫子市史 民俗・文化財篇より
神事・祭事
10月1日/例祭
元は旧八月十五夜
参拝情報
参拝日:平成29年1月15日
平成29年12月3日
御朱印
初穂料は300円。本務社である竹内神社でいただくことができる。
歴史考察
『湖北村誌』に残る葺不合神社創始
『湖北村誌』には、「当社の創立年代は古文書の徴すへきものなきを以って、明らかに知る事を得され共、諸種の状況を総合して考ふるに、奈良朝以前に在るか如し」と記してある。旧沖田村一帯は早くから開発されたところで、当たり一帯は古くから土器片が出土しており、近くの新木小学校建設の際、縄文から平安にいたる貴重な住居跡が発掘されている。「倭名抄」にみえる布佐郷に含まれるか、あるいはその周辺と考えられ、鎮守の杜が奉祀されたのも古代になさのぼるかもしれない。しかしながら、中世以前の史蹟は実のところ不明であり、確証ある記録が残っているわけではない。
東日本には珍しい御祭神鵜葺草葺不合尊
鵜葺草葺不合尊は彦火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子で、神武天皇の父である。祖父の彦火瓊々杵尊、父の彦火火出見尊とともに日向三代と呼ばれている。伝承地としては九州日向地方に多く残っており、鵜戸神宮背後の速日峯山上を「御陵墓伝説地 吾平山上陵」の参考地としている。他の天皇につながる神と同様に農業の神として信仰されるほか、夫婦の和合、安産などの神徳もあるとされる。日向地方では、鵜戸神宮や宮崎神社などに祀られているが、関東地方では主祭神として祀っているのは葺不合神社のみである。
新木城と葺不合神社
中世の資料から、新木城の存在については実証しえる明確な資料はないが、新木城跡といわれる場所に葺不合神社が祀られています。新木城跡は利根川南岸の低湿地帯から吾妻台と新木東台の間を南へ入り込んだ入谷津に面する上新木の台地上に占地したと伝える。その台地の西南端部に、葺不合神社が祀られている。国道356号線沿いに葺不合神社の鳥居があり、参道が北の谷へ下がっている。谷幅は狭く、西から東へ入り込んでいるが、参道はこれを横断して北側正面の台地へ続いており、樹林に被われた石段を上がれば社殿があります。その社殿の周囲は方形をなした一段高い土塁状の盛土によって囲まれているが、社地(山林)の背後は畑地が広がっているだけで城跡の遺構らしきものは見られない。実のところ、古くから城地が確定されておらず、実在したかどうかも明確ではない。
旗本依田氏と葺不合神社
依田氏は、もと武田信玄・勝頼に仕えた武将で、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え4代信重のときには2500石の旗本になっています。延宝2年(1674)、信重の代から新木村の領主となります。翌年、信重は隠居し嫡男が宗家を継ぎ、次男信方が分家し新木村を治めることになりました。以降194年間続きま、源助の代に明治維新を迎えます。徳川家は70万石に減封され、依田氏も家禄を失います。源助は、新木村に帰農し長福寺境内に住み、百姓になります。そして、葺不合神社の神主となり、新木の香取神社・古戸の稲荷社・日秀の将門神社・中里の諏訪神社・中峠の八幡神社・天照神社の神主を兼務し、明治21年11月15日に死去しています。
鎌倉時代初期創建の厳島神社
葺不合神社が移遷した地にあった厳島神社は沖田弁天といわれ『湖北村誌』によると、「元暦三年(1186)の創建に係ると云へらる竹内神社無格社厳島神社」とあり、草創の伝は平安時代末期です。その境内は一の鳥居から参道が下りとなり、再び上がって社殿に達するという地形で、低くなったところには湧水の池があった。周囲からしぼれる清水が池をなし谷津田を潤した豊潤な地形は、相馬御厨に落ち着きを得た村民が、農耕神として弁財天を祀り、福徳、技芸、産業の神として信仰されていた。それが発展して立派な社殿の建築が行われ、柏の布施弁天と並ぶものとなり、厳島神社と称するに至ったと考えられる。その社殿は、明和元年(1764)の「弁天堂奉加帳」があって、そのころの建立と知られる。
現在地への移遷
葺不合神社が五郎地から現在地へ移遷されたのは明治三十九年の神社合祀令によるものであり、明治四十一年に厳島神社(もと弁才天)に移設され、葺不合神社と改称されました。社掌千濱宗輔撰文なる明治四十三年の合祀記念碑には、「此度村社なる葺不合神社を始め白山神社三峰神社を清く風致よき厳島神社に移し合せ祀りぬ」とある。このとき各社の旧境内の森林を売り払うなどして運営が行われた。その結果、森林伐採だけでなく、同時にさまざまなものが破棄され、由緒沿革等を考える手がかりを失うことになったのかもしれません。
葺不合神社の移遷に際しては、再建されて間もなかった本殿が五郎地から曳かれてきた。このとき、旧境内から移されてきたものとして、拝殿前の石段登口に建つ鳥居には「葺不合神社、氏子中」の刻銘があって、五郎地の境内にあったことが確実であり、本殿後ろの「鵜葺草葺不合尊」と刻む明治二十五年の碑や年代の古い享保十八年(1733)の道祖神石祠も五郎地旧在のものという。
旧弁天堂であった拝殿
古来より、沖田村の弁天様と崇敬されているのは、この拝殿のことである。この拝殿は元々独立した神社で、祭神は市杵島比売命(弁財天)が、祀られ創祀は文治二年と言われている。現在の社殿は明和二年(1765)に弁天堂として造営され、その後、明治元年(1868)の神仏分離政策により、厳島神社に改名された。葺不合神社本殿は元来字宮前の地にあり、創祀は奈良期に遡るとされ、沖田の産土神として親しまれてきた。明治三十年に再建されたあと明治三九年(1906)の一村一社の令により、字宮前より字竹ノ内のこの地に、三峯、白山等の神社と共に合祀され、これを機に主祭神を鵜葺草葺不合尊とした。この時に拝殿堂内の八臂弁財天を右の間に遷し、葺不合神社本殿を拝せるように中央正面を観音開きとした。
氏子たちの寄進
葺不合神社の氏子たちは様々な石造物を寄進しています。御手洗石を延宝四年(1678)に寄進して以後、十九世紀までに神塔、灯籠、水神塔、狛犬、明神鳥居を計十六回にわたって寄進しており、また人数も多いときには七十人、また女六十四人のように多数が参加した。二十世紀に入ると石造物の種類がさらに増える。氏子たちがいかにこの神社を敬愛したかが窺える。
境内案内
鳥居
一の鳥居の入口付近には参拝記念碑や神社合祀記念碑、庚申塔などの石造物が多数あります。一の鳥居は石造の明神鳥居。昭和八年再建で「氏子中」と刻彫がある。そばに、旧鳥居の柱の基礎が残っている。二の鳥居も石造の明神鳥居。五郎地旧在で明治十五年の銘がある。
参道から弁天池へ
石段を下ると、かつては左側に弁天の池があり、この池に注ぐ小さな流れには石造の太鼓橋が架けてあり、この橋を渡り「二の鳥居」の石段を上るようになっていました。現在は埋め立てられ住宅地になっているが、参道を歩くと当時の面影を感じることが出来る。
拝殿(旧弁天堂)
明和二年(1765)に創建されたものである。方三間、入母屋造、もと茅葺を鉄板で覆っている。仏殿形式でもと弁財天を祀る社殿であった。身舎の周囲に縁をめぐらし、前面一間は吹き抜けとし、二列目の柱間に建具を立てている。内部の奥は三間に区切り、右間を厳島神社、左間を御嶽社、中央間を葺不合社にあてている。正面に「天女宮」と書かれた額があり、正面上部の壁に弁財天の彩色画が描かれ、身舎周辺の小壁と支輪の部分に草花鳥獣の彫刻を配して彩色を施し、向拝柱は麻の葉文を刻み、海老虹梁でつなぐ。柱の部分に見る木鼻彫刻もさまざまで、弁財天堂にふさわしい華やかさである。
彫刻芸術作品といえる本殿
明治三十年二月に建立された本殿は、方一間、流造、正面千鳥破風、向拝軒唐破風、銅板葺で、棟に千木、堅魚木がある。周囲に縁をめぐらし、四面の板壁に三韓征伐、八岐大蛇退治、天岩戸の神集い、神武天皇東征を題材にした彫刻で飾っている。また、欄間や向拝柱にもさまざまな彫刻装飾がみられる。大工新木村田口末吉、木挽根本米吉、彫刻師後藤藤太郎(北相馬郡北方住)と知られ、木挽の名があげられているのは、地元の材木を伐って用材としたことを思わせる。
彫刻は江戸以来の彫物大工の系譜を受け継ぐ二代目後藤藤太郎(竜ヶ崎住、文久元年〜昭和六年)の手によるものです。藤太郎は利根川流域で彫物大工として活躍し、我孫子市内では長福寺大師堂(下新木)、正泉寺本堂(湖北台)、延命寺虚空蔵堂(布佐)で彫刻を手がけています。
[ 神武天皇東征 ]
[ 天岩戸の神集い ]
[ 八岐大蛇退治 ]
[ 昇り龍・降り龍 ]
鵜葺草葺不合尊石碑
本殿裏にある鵜葺草葺不合尊の石碑。明治二十五年の銘があり、旧五郎地にあったものを移したといわれている。
神社写真帖
[ 一の鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 二の鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 昇り龍・降り龍]
[ 鵜葺草葺不合尊石碑 ]
[ 社額 ]
[ 天女像]
交通アクセス
◇成田線新木駅 徒歩10分
[脚注]
当ブログに掲載している情報は著者が参拝した時期の情報です。よって、最新のものではない可能性がありますので、何卒ご了解願います。
当ブログ内の古い資料画像は「今昔マップ」、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」などを使用しています。
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