目次
沿革
草創年代は詳かではないが、社地は相馬氏の城館址に相当すると見られ、城主が妙見菩薩を勧請奉祀したのにはじまると考える。城主を失った後、地元住民が尊崇護持し、十九世紀には根戸村鎮守として氏子中の組織が確立し、天保四年(1833)には現本殿(社殿の奥殿内に鎮座)を完成、拝殿および本殿覆屋等も建築された。
明治初年の神仏分離に伴い、明治九年に北星社と改称。市町村合併で根戸の一部が柏市に編入されたが、今なお根戸全域の鎮守として祭礼が行われている。昭和五十八年に社殿、鳥居等を新築、境城を整備して面目が一新した。
神社情報
北星神社(ほくせいじんじゃ)
御祭神:天之御中主大神(北辰妙見尊星王)
社格等:村社
例大祭:10月22日
鎮座地:千葉県我孫子市台田4-11-27
最寄駅:北柏駅(常磐線)
公式サイト:ー
御由緒
北星神社は明治九年に改称されるまでは「妙見宮」と呼ばれ親しまれてきた。
中世に相馬氏が所領していた時代の創建で、祭神に天御中主命を奉祀、本尊妙見菩薩。相馬・千葉氏に関わる城館には必ず妙見菩薩を祀る宮があったとされている。
しかし、伝承では、ここから北西に根切の田があり、そこから出土した妙見様が花戸原の妙見塚を経て現在地に祀られたという。
社殿がつくり替られたが、旧社殿の造営は棟札に社殿基壇部に、天保四年(1833)と記され、棟札には再建とあるので、それ以前から宮があったのは確かである。
明治四十一年に本県知事の許可を経て無格社六社を合祀しています。境内掲示板より
神事・祭事
1月1日/元旦祭
2月3日/節分祭
10月22日/例大祭
11月15日/七五三
12月31日/大祓
毎月1日、15日/月次祭
参拝情報
参拝日:平成28年1月2日
平成29年1月2日
平成29年12月3日
御朱印
初穂料:300円
御朱印は本務社である柴崎神社にていただくことができる。
御朱印は非常にシンプルである。妙見信仰の象徴である九曜紋の印が押される。朱印は「神璽」の印となる。墨書で「北星神社」、宮司印は平成28年1月2日拝受の御朱印は「宮司之印」が左下に押されていますが、平成29年1月2日、12月3日の御朱印は「柴崎神社宮司印」になっています。
授与品・頒布品
絵馬
初穂料:700円
正月三が日拝殿前授与所にていただくことができる。
妙見信仰の象徴 亀(玄武)がデザインされている絵馬。通常は無人であるが、正月三が日には拝殿前に授与所が設置されるので、そこで授与していただける。柴崎神社でも同デザイン(神社名は柴崎神社)の絵馬が頒布されている。
歴史考察
天之御中主大神(北辰妙見尊星王)を祀る旧根戸村の鎮守様
北星神社は相馬根戸城主が中世に妙見菩薩を勧請して創建といわれている。
現在、常磐線で分断されているが神社の南の森の中(荒追)には中世の根戸城址がある。居城した相馬氏は北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰していたが、相馬氏が千葉氏の流れを汲むことから妙見菩薩を信仰してしていたことには納得がいく。明治初期に根戸村の村社となり、明治9年に「北星神社」と改称されるまで「妙見宮」「妙見様」と呼ばれた。
妙見信仰は相馬氏や千葉氏が北斗星、北斗七星を神として信仰したことに始まる。小金大谷口の高城配下であった東葛各地にある中世城址には、守護神として妙見社が祀られていた。江戸期まで妙見社の祭神は妙見菩薩で神仏混淆であったため、慶応四年(1868)三月の神仏分離令によって祭神を変え、また合祀・廃棄される場合が多かった。
下総相馬氏とは
北星神社は相馬根戸城主が中世に妙見菩薩を勧請して創建といわれている。
相馬氏は千葉氏を祖とし、初代の相馬師常は鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男にあたる。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる。鎌倉時代後期に一時勢力が弱まったが室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。下総国相馬郡の領主として鎌倉時代から安土桃山時代までの四百年もの間、勢力を持っていた。
根戸城と北星神社
北星神社南東には法花坊館と呼ばれる城館跡が発見されており根戸城主の居館という説があります。周辺には「台田」「中馬場」「上屋敷」「御蔵屋敷」「北ノ内」といった城館関連とみられる小字が残っていたとされています(北星神社の住所も台田である)。法花坊館の南側は下総相馬氏の居城根戸城が位置する。さらに、谷を挟んだ北西には松ヶ崎城があり、一帯は手賀沼の北西隅にあたることから、根戸城を中心としたこの地域が水運と陸運の交わる地点として栄えていたこと、北星神社が下総相馬氏にとっては重要な位置付けであったのではないかと推測できます。
赤い丸が北星神社、青の丸が法花坊館跡、緑の丸が根戸城跡、法花坊館は北星神社の南東、根戸城跡の北になります。
根戸村明細帳に記載された北星神社
文政7年(1824) 根戸村明細帳には、「妙見大菩薩、別当東陽寺、但、一村鎮守、祭礼九月廿二日、先例正月廿二日奉謝」とあり、氏子による祭礼や奉謝が行われていた記録もある。また、天保四年(1833)には社殿の造営の記録があり、当時以前に氏子の組織はある程度確立していたと考えられる。
日本最古の一対の亀の石像(狛亀)
天保13年6月(1842) 手水舎の手前右手に、日本最古といわれる一対の亀の石像(狛亀)が作成された。
妙見菩薩の眷属を亀とするのは、妙見菩薩が玄武神と同一視されたためと思われる。玄武神は亀の周りを蛇が取り付いている神獣である。妙見菩薩像が亀や龍に乗っているのはこれによる。また妙見宮には亀の石造物が奉納されていることがある。
なお、同じ我孫子市の柴崎神社にも狛亀があるが、こちらは嘉永5年3月(1852)の建立で御影石で造られている。建立年が確認できた狛亀で江戸時代はこの2社だけのようです。
明治維新以後の流れ
明治維新後の廃仏毀釈に伴い、妙見菩薩は棄釈され、代わって天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祭神とし、明治9年妙見社を北星神社と改称した。
明治41年(1908)2月27日に千葉県知事の認可を経て、村内の吾妻大名神(池尻旧在)、香取社(上屋敷旧在)、天神社(上屋敷旧在)、第陸天社(荒迫旧在)、稲荷社(花輪旧在)、白山社(中馬場旧在)の六社を合祀。その碑を境内に建て、同年3月5日に合祀祭を執り行なった。その後、昭和49年に台田の八坂神社が焼失したため、当社に合祀された。
社殿の改築
昭和58年 国道6号線の2車線化などにともない社殿が改築。本殿覆屋の前に拝殿及び相の間があり、参道には木造の両部鳥居(権現鳥居・四脚鳥居とも。柱頭に台輪が付く)が建っていた。明治の神社明細帳に社殿間口4間・奥行5間とあり、現社殿改築以前の本殿覆屋の規模と推察される。
現社殿は鉄筋コンクリート造りの拝殿・幣殿・本殿が連続している神明造の形式で、その内部に旧木造本殿が納まる。旧本殿は板葺の一間流造、浜床から高蘭付の木階[きざはし](=階段)を登り、身舎[もや]に縁を回らす。向拝・身舎の壁面・縁下周辺に人物・花鳥・波涛等の肉厚な彫刻が施され、豪華な建築である。社殿内部は天井が高く大変立派で、太いヒノキの柱は圧巻である。社殿扉・屋根・賽銭箱・祭壇等に、中央に大きな星を置き周囲に8個の小星を付した九曜紋が確認できる。
[ 引用:我孫子の史跡を訪ねる ]
所感
妙見菩薩を信仰の対象とする千葉氏の流れを汲む、下総相馬氏と関連の深い神社。中世、手賀沼の北西隅に位置していたことから、水運、陸運の交通の要所として栄えた地域であると思われる。今では住宅地として開発されていますが、当時の繁栄が伺える根戸城跡や法花坊館などの史跡も多数存在する。
我孫子市には、妙見信仰の流れを汲む神社として柴崎神社がある。北星神社は今では柴崎神社の宮司が兼務しているが、その歴史から柴崎神社よりも規模も大きく繁栄していたと思われ、格も高かったと推測される。
無人社となっている今であっても、社殿は風格があり、参拝者も多く訪れる、地元に親しまれている神社である。
境内案内
国道沿いに面する参道
参道入り口は国道6号線に面しています。我孫子市と柏市の境にあり、境内内に境界線があります。参道右側が柏市、左側が我孫子市になります。
重厚さを醸し出す社号碑。紅葉とあいまって神社の雰囲気にマッチしています。
鳥居入口横には庚申塔(嘉永4(1851)、安政4(1857))のそれぞれ建てられたものです。社殿改修工事後に現在の場所に移されました。
妙見信仰の象徴 狛亀(玄武)
妙見菩薩の神使は北の守護神の玄武であるが、妙見菩薩をお祀りしていた妙見社であったことから、拝殿前には狛亀が鎮座しています。
こちらはの狛亀は日本最古の狛亀(天保13年6月(1842)建立)と言われています。荒波の中、子亀が岩を登る台座も珍しいのではないだろうか。
鉄筋コンクリート造りに改築された拝殿
改築前は、本殿覆屋の前に拝殿及び相の間が存在した。現在は、コンクリート作りの拝殿・幣殿・本殿が連続している神明造となり、より重厚感が増した。
改築後の本殿内部には旧木造本殿が納まっている。
合祀社殿
左から香取神社・八坂神社・第陸天社・吾妻大明神・天神社・三峰神社(末社)・金比羅神社・不動明王・稲荷神社・待道大権現の10が祀られている。
神社写真帖
[参道入口]
[鳥居]
[掲示板]
[社号碑]
[手水舎]
[日本最古の狛亀]
[狛亀]
[拝殿]
[社号額(神額)]
[九曜紋]
[本殿]
[平成天皇御大典記念碑]
[庚申塔]
[合祀社殿]
[北星神社御神霊碑]
交通アクセス
◇JR常磐線 北柏駅 徒歩7分
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